2018年8月18日(土)14:00~ 杉並公会堂
松岡究+合奏団ZERO
Vn.長尾春花
♪ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
♪バルトーク/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番~第4楽章(アンコール)
♪ブラームス/交響曲第2番
前回のマラ9が好印象だった合奏団ZERO(中野ZEROを本拠地とするアマチュア・オーケストラ)。今回は、2010年10月に芸大学生オケのコンミスに座った演奏に惹かれて以来、動向を注視していた長尾春花さんが、カール・フレッシュ・コンクール優勝の凱旋でブラームスを弾くということもあり、「時間ができるのに演奏会が乏しい」お盆周辺を埋めるに最適の演奏会、になるはずだった。
指揮者とオーケストラの関係が裏目に出たのか、普段の主力メンバーが集まらなかったのか、個々の不調が偶然にも重なったのか、あるいはその全てか…この日もベクトルが合った時の本格的な音色や力強さには惹き込まれる瞬間があるものの、それが連続せず断片として霧消してしまった。
前回は方向感が合致していたヴァイオリン群が散らばりがちで、盤石だった低弦が別楽団かと思うほど音程がうなったりして安定せず。総じて管楽器にpやppがなく煩くて、HrやFgを中心に音程や発音の拠り所を欠いたまま押し切ったように聴こえた。この管楽器の傾向は致命的だった。マーラーのような大編成で楽譜の指示が子細な音楽では目立たないのかもしれないが、ブラームスのような弦楽器とのバランスで、かつ音色や音程、でっこみ引っ込みを指揮者を交え楽団が主体的に作っていく音楽(主にロマン派以前)では、管楽器群が全奏をべったりと塗りつぶした時点でゲームオーバーだ。それに、楽譜になくても協奏曲では採るべきfp(フォルテピアノ)が乏しく厚塗りなため、ソリストが埋もれぬよう音を張らねばならない事態は誰も幸せにしない。15年以上前、某市民オケを松岡さんが振ったブラ2を聴きに行った時、同様の傾向に輪をかけて金管楽器が咆哮し辟易したことを思い出した。いや、この日のZEROは、コンチェルト第2楽章のオーボエ・ソロ、1stVnのカンタービレや中低弦の内声部に、時々光る瞬間はあったのだ。それだけに、そういう点と点を紡いでより太い線にできなかったのはなぜだろうと、心の中で舞台上へ問いながら鑑賞したのだった。
長尾さんは、学生時代のキラキラ感はそのままに、力強さや表現の幅、技術の切れを格段に高めて、風格漂う若手ヴァイオリニストに成長されていた。ハンガリーの国立歌劇場でコンサート・ミストレスを務めていらっしゃるのだから、双肩にかかる責任や期待に応える日々が、演奏のバックグラウンドをしっかりと支えているのだろう。得てしてきつくなったり高音が当たらないブラームスの協奏曲にあって、その辺りを美しく響かせたところに学生時代と変わらぬ意識の高さを垣間見た。川久保さんにしても樫本さんにしても、カデンツァを歌うあまり停滞するのが好ましくなかったのだけれど、長尾さんは前向きなインテンポの中で最大限歌うスタイルをとり、その堅気で潔い音楽性は欧州で高く評価されるのではないかと思った。ハンガリー土産のアンコールの切れ味と昇華された土俗性の表現は圧巻であり、国内外でのさらなる活躍を期待させるに十分な演奏で満場の客席を魅了したのだった。