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フランス・ブリュッヘン+18世紀オーケストラ Pf.ユリアンナ・アヴデーエワ ♪モーツァルト/交響曲第40番 ♪ショパン/ピアノ協奏曲第1番、第2番 #ナショナル・エディション、 ノクターン第5番、マズルカ第25番(アンコール) 自分にとって、おそらく『ブリュッヘン+18cオケ』とは惜別の日。カーテンコールはアヴデーエワのリサイタル状態で、思っていたのとは少々違う形にはなったけれど、マエストロは前日とは別人のように腰から動いて元気だったし、華やいだ雰囲気の中でお別れというのも悪くない。 ブリュッヘンだけでなく、楽団も前日より好調だったように思う。管は安定し、弦は少ししっとりして一体感を増して聴こえた。それが、一種霊的な場所にありがちな湿り気を想起させて、K.550では作品のデモーニッシュな要素が色濃く再現されたように感じた。 第1楽章191小節目からのフォルテは、進めば進むほど哀しみが深さを増し、客席も引き寄せられていく空気の動きが感じられるほどだった。昨日に引き続き緩徐楽章の機微が繊細で素晴らしかったのだけれど、この日は後半、特に終楽章の厳しさが一段と胸に迫った。何せ長調に転じても全く明るくない。そのままでは無常絶縁の淵に追いやられそうなところ、トラヴェルソはじめ木管群の素朴な音色が時にコケティッシュで救いだったり。総じて、これほど表現に迷いがなく必然を感じるK.550は聴いたことがなかった。 演奏に打たれて少々呆然としながら、休憩時間にSonnenfleckさんと感想を交歓。前半だけでお別れでも構わない程の充実感だったところ、最大の感涙体験はショパン1番で待っていた。指揮者の正面にピアニストが座するよう配置された小ぶりなピアノは、1837年エラール製のヒストリカル。しかもオリジナル。おそらくタッチはフォルテピアノ並みに浅く、現代ピアノに慣れた奏者には扱いにくいはず。ところがアヴデーエワ、これを自由自在に奏で、しかも味わい深い楽器の音色を存分に響かせたのだ。 ブリュッヘン+18cオケのショパンといえば、ダン・タイソンとの録音を愛聴してきた。ところがこの日のライヴは、その録音を過大評価しても及ばない、決定的で衝撃的な演奏となった。とにかくシリアスなのだ。楽団の序奏、ファットな叙情を排して心えぐることと言ったら!そこに決然と切り込むアヴデーエワの、というかエラールの響きは、この世のものとは思えぬ淑とした美しさで・・・ニュアンスに富む。さらに彼女はクレバーで、決して無理な打鍵を弄さず、私が聴く限り1箇所のミスタッチ以外完璧な音楽を紡いだのだった。 ブリュッヘン+18cオケは、縦横無尽な彼女を懐深く包み込むも、ショパンに内在するシリアスな心象を厳然と引っ張り出してきて容赦ない。そうした深遠な音楽世界では、即興的要素が一段と愉悦性を高めるのかもしれな。対面するブリュッヘンを、時に体を揺らしてリードするアヴデーエワ。それを受け止めつつ、むしろ若い女性にもてあそばれて生気を得るような(笑)マエストロのタクトと、相乗して精彩を増す18cオケが絡み合う。ふう、美辞麗句を弄するのはこれぐらいにしておこうか。唯一無二で、自分が想像し得なかった音楽体験を享受した畏敬の一夜だった。 とうとう歩けず車椅子だったマエストロ。でも2年前と同じく、上半身は十分にお元気で、精神的な衰えは垣間見られなかった。むしろ音楽の求道は深みを増していると感じた。この後、NJPに客演したグレイトとアンコールのロザムンデは、楽団史上に残る名演奏だったと聞く。念のため、“18世紀オーケストラとの来日は最後”なんですよね?マエストロ・ブリュッヘンのライヴを、何らかの形で再び耳にできることを信じている。だから、まだお礼は言わない。
by mamebito
| 2013-05-04 01:52
| コンサートレビュー
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